不特定多数無限大の中の自分

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090814-00000001-voice-pol
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090814-00000002-voice-pol
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090814-00000003-voice-pol
(1)〜(3)まであるが、最後から気になった所を。

しかし実際に情報化社会が踏み込んだ先は、深刻な情報格差と情報間対立であり、知識社会に適応するための終わりなき情報摂取の強要である。ある意味、ネット原理主義といっていい。

確かに専門性が増すたびに他の物との差が大きくなっていくのはあたり前なのだろうし、それを埋める為に情報摂取を続ける必要もあるのだろうとも思う。だけれども、ひとつの物を深く掘り下げて、真理といわないまでも根本となるパターンだったり、なんだったりを学ぶ事は出来るんじゃないかなあと思う。そうなれば例え専門外の事だったり関心外の事だったりも、距離的に近くなるんじゃないかなあと思う。マネだったり、共感の様な物でしょうか。

私たちがそもそも何者であるかを熟考することが、情報化社会というミームの呪縛から解き放つ鍵となるのだ。

自分の中に何か一本基軸となるような線が必要なんだと思う。その基軸がないと、大量の情報やら他人の考えらや、なにやらかにやらが正しく感じられなくなっちゃうんじゃないかな。その為にはやはり熟考する事が必要なんだろうなあ。

この方の文章は分かりやすい時と分かりにくい時とがあって面白いなあ。